大分県臼杵市『臼杵城跡』を歩く

臼杵城跡 鎧坂 大分県
臼杵城跡 鎧坂
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JR臼杵駅から徒歩5分から10分で行くことができる『臼杵城跡』。

臼杵城とは、キリシタン大名として知られている大友義鎮(宗麟)が築城した城。

大友氏が滅亡した後、福原直高が城主として入城し、臼杵城を、石垣と瓦ぶきの櫓を数多く造ると言う新しいモードの城郭へ改修しました。

これは臼杵城が戦国時代の影響を強く受けていたことから、織田信長の安土城のような、豊臣秀吉の大阪城のように改修したとのこと。

古橋口(ふるはしぐち)〜大門櫓(だいもんやぐら)

臼杵城の入り口、まず手前の古橋(ふるはし)を渡ります。

渡った先に、グネグネとした狭い道があります。

これは、大友宗麟の時代から登場路として使われていた道で、

外的を防ぐために岩を掘り切って造ったという道。

馬の鎧に似ていることから、『鎧坂』と呼ばれています。

この坂を登った先に鳥居が見えます。

こちらの鳥居をくぐった先にあるのが『畳櫓』です。

畳櫓は、1階と2階の床面積が同じ『重箱造り』と言う古式の構造をしているそうです。

この畳櫓を正面にして左側に石垣があり、こちらは『伊楼櫓台石垣(いろうやぐらだいいしがき)』といいます。

こちらは、次の大門櫓を通り抜けていただくと、この石垣の上に上がれて、上からの景色も観れるので、是非、上がってみてください☆

そして、畳櫓をUの字に曲がり、右手に見えるのが大門櫓。

大門櫓は臼杵城に入る玄関のような、そのように感じる櫓です。

階段を上り、ここを通り抜けると臼杵城跡を散策できます。

ここを通り抜けて右手を見ていただくと、先ほどの石垣、『井楼櫓跡』があります。

井楼櫓跡
井楼櫓跡

こちらを上がっていただくと、臼杵の町並みを観ることができます。

臼杵市の町並み臼杵城跡より
臼杵市の町並み臼杵城跡より

お城の少し先の向かい側に立派な石垣が見えたり、その手前は民家だったり(昔は商店だったのでしょうか)、このような景色は臼杵の町並みの特徴の一つでもあるようです。

時鐘櫓跡(ときかねやぐらあと)

こちらは、先ほどの大門櫓への階段を上がらずに、まっすぐ進んだところにあり、大門櫓からも近い場所です。

こちらは時報として鐘で時を報せていた場所。

この鐘は当時のものではなく、『ここに時鐘があったんだよ』っと言うことがわかるように、臼杵ロータリークラブの方々から寄与されたそうです。

西の丸居館庭園跡でもある臼杵護国神社(稲葉神社)

さて、先ほどの大門櫓への階段を上り、通り抜け、まっすぐ進んでいくと、『臼杵護国神社』があります。

ここは『西の丸居館庭園跡』で、城主居館が移された場所で、地上遺構は見当たらないが、庭園の一部が残されている場所です。

臼杵護国神社は、『稲葉神社』とも呼ばれ、臼杵藩の藩主であった稲葉貞通から始まる15代の藩主の御霊が御祭神。

明治10年に『西南の役』という薩摩軍と臼杵隊との戦いで、43名の戦死者を出した痛ましい出来事があった。

臼杵隊の戦死者の霊を祀るために招魂社を創建したことに始まり、稲葉神社と合併し社名が臼杵護国神社と改称されました。

こちらは護国神社のすぐ近くにあります。

不老不死の霊薬『天台烏薬(てんだいうやく)』クスノキ科の常緑灌木。

こちらの看板に書いてあるロマンの伝説というお話がありました。


”今から2200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に使えていた徐福は、始皇帝の命により、

東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて、

3000人の童男童女を引き連れ、和歌山県熊野に渡来したと伝えられています。

徐福一行は、この地に自生する天台烏薬という不老不死の薬木を発見しましたが、

気候温暖風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き農耕漁法捕鯨紙すき等の技術をこの地に伝えたと言われています。

始皇帝のもとへ天台烏薬を持ち帰ることはありませんでした。”


馴染みがない名前できょとんとしてしまいましたが、この天台烏薬、

活性酸素消去作用があるという研究結果が紹介されていたりするそうで、あながち嘘ではないかもしれません。

臼杵城跡

ここから進むと、大きな広場があります。

この地図で言うと、多目的広場にあたる場所です。

地元の方々の憩いの場となっていて、時間帯と曜日によっては、とても賑わっていたりするようです。

この日は、ゲートボールが行われていて、皆様、とても楽しまれていました。

広場の周りには石碑がたくさんあり、それを見ながら歩かれるのも良いでしょう。

多くの車も広場脇に停められていました。

お城跡の場所に車が入ってくるなんて、とても新鮮な光景でした。

この広場を超えて進んでいくと、鉄門桝形石垣(くろがねもんますがたいしがき)と武具櫓跡(ぶぐやぐらあと)があります。

こちらは本丸の入り口となる重要な場所で石垣は『算木積み』(さんきづみ)と言う17世紀前半の特徴を見せる石垣だそうです。

この先に、臼杵城跡、天守櫓跡があります。

ここも石垣となっていて、もともとは7mの高さがあった石垣だったそうですが、大正時代に4mほどが壊されてしまったそうです。

臼杵城内に残る唯一の16世紀の石垣とのこと。

卯寅稲荷神社

こちら、城の卯寅口が鬼門にあたるとのことで、大友宗麟自らが建立した稲荷神社。

鳥居が卯寅神社まで続いています。

卯寅神社参道
卯寅神社参道

この鳥居の階段の途中に曲がる道があるのですが、そちらを曲がると、『卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきやぐら)』に着きます。

鉄砲薬櫓とも呼ばれていた卯寅口門櫓。

火薬庫としても使われていたそうです。

もともとは海に囲まれていた城ですので、緊急事態が発生したら、ここから逃げるように考えられていたとのこと。

ここから見る左側にはこんな石垣が。

これは何だったのでしょうか。

少しの時間、じっと見てしまう石垣でした。

卯寅口には井戸が設けられていたので、井戸丸とも呼ばれていました。

周りが海に囲まれた城にも関わらず、ここの井戸からは真水が出ていたそうです。

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